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青の抽象的な背景

世界銀行イラク復興計画

武力より住民のハートをつかめ!


対象地:イラク共和国

期間 :2003年7月~2003年12月


プロジェクト概要

 

日本でただ1 社イラク復興計画に参加

 

米国主導の連合軍は2003 年2 月に第二次イラク戦争を始め、3 月末にはバグダッドを支配 下に置き、5 月にはブッシュ大統領が勝利宣言を行いました。2003 年5 月には、米国の要 請で世銀と国連が共同でイラク復興計画を作成する事が決まり、世銀よりJDI の小林に依頼 があり、日本企業ではただ1 社選ばれ世銀・UN 合同イラク復興計画策定Mission にJDI 所 長の小林が2003 年7 月はじめからの2 週間、現地調査に参加することとなりました。小林 が選ばれた理由は、1980 年から1986 年まで、Baghdad 2001 と言う国家計画策定に小林が副 総括として指揮を取って来た経験を買われてのことでした。15 名近い国連と世銀職員と世 界から選ばれた10 名ほどの専門家がアンマンから特別機でバグダッドに入り、イラク暫定 政府の計画大臣や主要閣僚との協議や現場視察をはじめ、実際の暫定政府を切り盛りして いた米軍との協議を行いました。帰国後2 ヶ月で350 億ドルに及ぶ緊急イラク復興計画を まとめ、この計画は10 月にマドリードで開催されたイラク復興国際会議に提出されました。

治安悪化で困難を極める復興計画

日本政府もイラク復興計画には積極的で当時の小泉首相は早々と50 億ドルのイラク支援計 画を国際公約として発表しました。その中、小林は日本のイラク支援策をまとめ、優良案 件の発掘の目的で、8 月から10 月にかけて3 回イラクを訪問し、バグダッドからバスラま で主要都市を回り、電力、上下水道、道路・橋、病院、訓練設備などの現地調査を行いま した。しかし8 月の末には国連・世銀の共同事務所が爆破され、数十人の犠牲者を出し、 その後もバグダットの治安は急激に悪化していきました。10 月の末には日本の外務省から 派遣されていた奥大使と通訳がバクダッド郊外で襲撃され命を奪われた悲惨な事件が発生 し、外務省は日本人の渡航を原則禁止する状態に陥入りました。その後はアンマンからの リモートコントロールでの調査が行われ、JDI としても今までのイラクでの経験を買われて、 JICA やJBIC の調査3 案件に参加しました。しかし現場に行けない調査は難しく、イラク政 府の関係者をアンマンに呼んでの調査を行うものの、実施する為には現場での作業無しに は進まず、また治安が悪化したイラクでの復興計画は予定通りの実施は困難を極めました。 米軍を主体とした連合軍は16 万人もの部隊を派遣して、治安の安定と復興支援を進めてい ましたが、内戦化してしまったイラクでの復興は開戦以来、44 千人以上の戦死者と10 万人 以上のイラク人犠牲者と300 万人以上の避難民を生み出す一方、5000 億ドルにも及ぶ資金 の投入をしたにも関わらず、イラクの経済復興は進んでおらず、治安さえ確保できていな い状態となっています。

武力とお金だけでは問題解決にはならず、地道な人民のハートを掴む支援が必要!

小林は1980~86 年までの6 年間、イラクの国家計画作りのコンサルタント事業に副総括と して、現場で指揮を取って来た事もあり、その当時からのイラクの知人が現在ではイラク 政府の重要なポジションにおり、イラク人から直接にイラク情勢をいろいろな角度から知 る事が出来ました。また世銀・国連調査団員との立場では、実際にイラク戦争を起こし、 イラク暫定政府を動かして来た米国の指揮官ともいろいろ議論し協議する機会を得ました。 特にグリーンゾーンと言われている、フセイン大統領が住んでいたパレスに陣取っていた パトリック・ケネディ副指令官とは2-3 度話をする機会を得ました。



イラク情勢の推移の経過

1. 2003年3月会戦

2. 2003年5月に勝利宣言

3. 2007年7月にフセイン関係者全員の解雇(30万人)

4. 2003年7月以降:大幅な治安悪化

5. 2004年以降は内戦状態に突入



上記のイラク情勢の悪化の推移を観察して感じたのは、「地域紛争の解決には、武力とお金 だけでは問題解決にはならず、地道な人民のハートを掴む支援が必要!」ということです。 7 月の半ばに小林がイラクに行った際には、イラク住民の多くは米軍によるフセイン政権打 倒に賛成で、これでイラクにも良い時代が来ると期待していたイラク人が大多数でした。 しかし、8 月末に再度イラクを訪問した時には治安が悪化し始めており、世銀・国連事務所 も爆破されてしまっていました。それ以降、9 月と10 月に訪れた時には治安の悪化はます ますひどくなっていました。この情勢の変化について、小林は1980 年代からのイラクの友 人に聞いてみましたが、大きな転換期は7 月中に米国が行ったフセイン政権の関係者の一 斉の解雇であるとのことでした。軍、バース党員、警察、イラク政府関係者、地方の行政 官も含めて約30 万人のフセイン政権の指導者(米軍はHussein Boys と呼んでいた)を全て 解雇し、関係の無い人に入れ替える大作戦を実施したのです。このHussein Boys の一掃作 戦に対して全国で大規模な仕事の復帰を求めたデモが起きましたが、米国は聞く耳を持た ず、デモを武力で解散させました。残念ながら、この大作戦以降生きていく糧を失った150 万人の(30 万人の解雇された家族:平均5 人として150 万人)は反政府・反米の先頭にな り、生きていく為に強盗・人質・殺害を繰り返す様になったのです。一方、同じように米 軍主導の日本の終戦の時には一部の戦犯を除いて、大多数の政治家、行政官、警察官など はそのまま解雇されずに仕事を続ける事になり、大きな混乱も無く米国の進駐軍は日本を 10 年足らずで安定した国にする事が出来ました。その時の教訓は今回のイラク復興には生 かされなかったということです。

一般的にはどの国の復興にも今まで国を支えて来た人々の参加無しには大変難しいことだ と思いますが、フセイン憎しの感情を優先したブッシュ政権はHussein Boys の一掃大作戦 で墓穴を掘った可能性が高いと思われます。その後、米国は14-16 万人の軍隊と年間予算で 1000 億ドル以上のお金をイラクに投入してきましたが、結果はベトナム同様の泥沼化とな りました。今回のイラク戦争とその後の状況を観察して言える事は、紛争解決には武力と お金だけでは問題の解決ができない事です。より重要な事は住民の心を捉える経済・社会 開発政策です。イラクの友人らの声を聞いても、また最近の国連や報道機関のアンケート でも80%を超えるイラク人民が米国主導の駐留に反対しており、80%もの反対者を出して しまう統治の仕方では治安の安定も経済開発も無理です。人類はイラク戦争とその後の復 興の失敗を二度と繰り返さない様にイラク戦争とその後の経緯の真相究明を行い、事実を 世界に伝えるべきです。


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